和同開珎

日本人なら誰もが学校で勉強する、日本最古の貨幣「和同開珎」があります。

日本で初めて作られた貨幣のはずですが、しかし近年は最古の貨幣ではないという説も出ているのです。

なぜそんなことになっているのか、調べてみました。

和同開珎の秘密についても合わせてご紹介しています。

和同開珎の誕生

和同開珎は、元明天皇時代の西暦708年に鋳造された貨幣になります。

日本で初めての自然銅が埼玉県秩父市黒谷の和銅山で見つかり、それが朝廷に献上されて和同開珎が作られることになりました。

唐で流通していた開元通宝(清の時代まで約700年間も中国で使用された)という貨幣をモデルに作ったと言われています。

開元通宝

この時期、朝廷は平城京の造営工事を行なっていて労働者への賃金にこの和同開珎が支払われました。その後奈良の都の人々のお金として使用されることになります。

<平城京>
平城京

実際には、 西暦708年5月に銀素材の和同開珎が作られています。これは当時都の庶民は銀素材の無文銀銭という貨幣を使用していたので、しばらく対応してもらう期間を設けて発行されたと考えられています。(このことは後に説明する無文銀銭にもつながります)

7月からは銅製が作られ始め、翌年8月には銀製が運用停止となっています。

朝廷はこの貨幣鋳造を祝い、元号を「和銅」と改め、その和銅元年2月13日には和銅の採掘場近くに聖神社を建てました。

元号を変えるくらいですから、朝廷にとってはおめでたい出来事だったのです。当時の人々も喜んだことでしょう。

聖神社には朝廷から贈られた銅製のムカデ(あしが多くお金に困らないので縁起がよいとのこと)、最初に採れた銅塊の一部、そして鋳造された和同開珎が大切に保管されています。

なお和同開珎の発見は全国で500ヵ所以上に及び、広く使われていたことが確認できます。

思ったほど定着しなかった?

全国500ヵ所以上で出土していることから、広く使用されたことは事実です。畿内や都の人々には定着していたと考えられています。

しかし、当時全国はまだ米や布を交換し合う物々交換の時代です。お金を使わない人々はなかなか馴染んでくれませんでした。

また朝廷は殻6升を銭1文(和同開珎1枚)で購入できる価値と決めました。当時の殻6升は、現在に換算すると米4kgに近い量です。1枚の価値としてはかなり高いですよね。

この価値は高すぎたため、お金を使っていた庶民も結局は民間で作られた私鋳銭(しちゅうせん)を使うことになってしまい、和同開珎はますます価値が下落していきます。

当時の日本では統一貨幣というものを全国へ定着させるのは大変だったようです。

鋳造が始まった西暦708年から3年後の711年、朝廷は特例を出し、和同開珎を貯蓄した者を昇進させるとしました。

この貨幣の価値を高める特例だったわけです。しかし、この命令では全国への普及にはつながりませんでした。

さらに何十年も経つと、当時の製造技術ですから和同開珎はボロボロになってしまい、流通貨幣としては新たな対策が必要となってきます。

朝廷は760年に万年通宝、765年に神功開宝、その後隆平永宝と発行が続き、計12種(皇朝十二銭)の貨幣を発行し続けます。

958年は最後の12番目の乾元大宝を発行するのですが、この頃は銅の産出が不足していて貨幣はほとんど鉛でできていました。

そのためこれらの貨幣は劣化が激しく、ますます定着しなくなったのです。

和同開珎から始まった国家としての流通貨幣政策は、残念ながら958年の発行をもって最後となり、失敗に終わってしまったのです。

その次に国家として貨幣が発行されたのは…なんと、600年後の江戸時代に入ってからです。

それまで日本はずっと大陸(主に宋)から入ってくる渡来銭が庶民のお金として使用されることになりました。

読み方の議論

和同開珎は、「わどうかいちん」と「わどうかいほう」と二つの読み方があります。

「珎」は「珍」の異字体であり、使われ方は同じです。

であれば「わどうかいちん」で問題なさそうなのですが、実は中国で作られた貨幣はほぼ全て「○○通寳(つうほう)」と名付けられています。

そのため「わどうかいほう」が正しい、という説があるようです。

近年の資料では「わどうかいちん」とした読み方が多いように思います。「珎」の読み方そのままの方が、馴染みやすいようですね。

実は最古の貨幣ではない!?

昔から日本最古の貨幣は和同開珎とされて学校でも教えられてきました。

しかし、2010年頃からは学校の教科書では「富本銭」という貨幣が最古として紹介されています。これはどういうことでしょうか。

富本銭とは

富本銭

富本銭(ふほんせん)とは、西暦683年頃に作られたとされる銅銭です。

表には「富本」という文字が刻印されています。これは中国の古典にある、国家や国民が冨のもととなる、という言葉から名前になったと考えられています。

左右の7つの点は、陰陽五行思想の陽(日)と陰(月)の2つ、そして火水木金土の五行を合わせた七曜星となっています。

683年頃の鋳造のため708年の和同開珎より少し古く、こちらが最古の貨幣という説が強まっています。

富本銭の最初の発見は1969年の平城京跡でした。(実際には江戸中期の書物に「富本七星銭」という絵が描かれていて、江戸時代に発見されていたと考えられています)

当初、研究者には貨幣というより「まじない銭」だと考えられていました。1991年には藤原京跡の古い地層から、1997年には難波宮跡から1枚出土します。

そして1999年、飛鳥池遺跡から33枚の富本銭が出土します。当時ガラスなど金属製品を作っていた飛鳥の中心地での発見は、大きなニュースとなりました。

出土した地層からは、687年とわかる「丁亥年」と書かれた木簡も一緒に見つかっているので、同年代に作られた貨幣であることがわかります。

『日本書紀』には天武十二年(683)の詔として、このような記述があります。

「自レ今以後、必用二銅錢一。莫レ用二銀錢一」

訳すと、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」 となります。

天武天皇が銭貨政策を打ち出した記録です。それまでの銀銭をやめて銅銭を使うようにしなさいと命令していますが、683年にはまだ和同開珎はありません。

ということはこの一文の「銅錢」は富本銭に該当する可能性が高まったのです。

この発見の直後、奈良国立文化財研究所も和同開珎より古く683年鋳造の可能性が極めて高いと発表しました。

その後の調査ではこの当時9,000枚以上が鋳造されたと推測され、大がかりな鋳造が行われていたと考えられています。

素材を調べてみると、初期の和同開珎と似ていたことが判明しています。つまり秩父で発見された和同の前に、どこかで銅の産出があったことになります。この点は今後の研究を期待しましょう。

この発表によって、学校の教科書も富本銭が最古と記載されるようになりました。

ただ発見された富本銭の枚数は極端に少ないため、流通貨幣としては和同開珎が最古という書き方もあるようです。

無文銀銭とは

無文銀銭<無文銀銭>出典元:文化遺産オンライン

無文銀銭(むもんぎんせん)は、天智天皇がいた667~672年の近江京で作られた銀銭です。

和同開珎より40年ほど前、富本銭より20年ほど前になるので、こちらが最も古い貨幣という説があります。素材は銅ではなく銀となっています。

和同開珎などとは製造方法が異なり、単に銀板を打ち、丸くした銀板を貼り合わせたことで作った貨幣で、中心に小さな穴が開けられているのが特徴です。貨幣に文字の刻印はありません。

重さもバラバラで、関西地方を中心に19遺跡34ヵ所で発見されていますが、その枚数は少ないです。

史料にも書かれていない貨幣のため、本来は名称はありません。

ただ江戸中期に大阪の天王寺で発見され、当時の人が価値が不明という意味で無文銀銭と名付けました。この名前が現在まで続いているのです。

(この江戸時代に天王寺で発見された時は100枚が見つかったそうですが、そのうち1枚だけが現在まで残っています。)

その後は明治時代に奈良県で発見されたり、1940年に滋賀県のお寺で舎利容器(お釈迦様の遺骨を入れる容器)とともに発見されたり、近年では1994年に京都の小倉町別当町遺跡で出土しています。

そして1998年、飛鳥池遺跡からも無文銀銭の切断片6点が発見されます。翌年には富本銭が出土した場所でもあり、この点は注目されています。

『日本書紀』には683年の時点で銀銭を中止せよとの一文があるため、富本銭の以前に、当時の記録に残っていない名前の貨幣が存在したとすればこの無文銀銭になるという学者もいます。

ただこの無文銀銭は国家が関与していない私鋳銭、または銭ではない「銀」であり、庶民が通貨として使ったとは認められないという説もあります。

この点は現在でも論争が続いていて、結論は出ていないようです。それほど流通はしていなかった可能性が高いですが、富本銭の以前に、なんらかの銀銭は存在していたと思われます。

この部分が今後解明されれば、さらに最古の貨幣が何であるかわかってくるかもしれませんね。

まとめ

  1. 和同開珎は流通貨幣として使用された
  2. 富本銭は最古だが流通は不明
  3. 謎の多い無文銀銭もそれ以前にあった
  4. さらなる研究が期待される

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