江戸時代はどんな種類のお金を使っていたイメージ

時代劇を観ていて、登場するお金と言えば小判、古金銀、穴銭だと思います。

「当時のお金はどれくらいの価値があるの?お金事情を知りたい」

という人は多いのではないでしょうか?

このページでは、江戸時代に使われていたお金の種類や単位について解説しています。

現在のお金でいうと?円になるのかも気になるところですよね。

江戸時代のお金がわかると、より古銭が身近に感じられますよ。

江戸時代以前はお金は作られていなかった!

貨幣はいつの時代も政府が作っているイメージがあるかと思います。

しかし実は江戸時代までの約600年もの間、日本ではお金は作られていなかったのです。

平安時代に朝廷が最後の貨幣を作って以降、大陸から輸入される銅銭を国民が使用していました。

また豪族などが大陸の銅銭を真似て勝手に作るなどしていたのです。

そのため実際には綺麗な貨幣は少なく、ボロボロの粗悪な鐚銭(びたせん)が使用されていました。

戦国時代には大名が金貨を作った例がありましたが、それは貿易用や褒章用であり庶民が使う流通貨幣ではありませんでした。

江戸時代に貨幣を鋳造

徳川家康が江戸幕府を開くと、すぐに貨幣を統一することを決めます。

「三貨制度」という制度を確立させ、金・銀・銅の3種の貨幣を作ってそれらを使用させることを決めたのです。

具体的にはこのような種類になります。

金貨:「大判」「小判」「一分金(いちぶきん)」
銀貨:「丁銀(ちょうぎん)」「豆板銀(まめいたぎん)」
銭貨:「一文銭(いちもんせん)」

※幕末はさらに種類が増えます
※銭貨は銅銭や鉄銭などを指します

一つの国で3種類のお金があるなんてややこしいですよね。

江戸時代のお金事情が難しい理由はここにあるのです。

この中でわかりやすい種類といえば、「小判」はおなじみだと思います。

一文銭は3代将軍家光の1636年に「寛永通宝」が作られ、幕末までの非常に長い期間、庶民が使うお金となりました。

「寛永通宝」も名前を聞いたことがあるのではないかと思います。

ちなみに、お金を作る造幣所を大判座・金座・銀座・銭座というように貨幣の種類ごとに幕府が設置しましたが、江戸にあった銀座は現在の地名として残っています。

お金の単位

次に江戸時代の3種類のお金の単位をまとめてみましょう。

現在のお金の単位はもちろん「円」ですよね。単位は一つですが、昭和初期や大正時代には小さい単位の「銭」もありました。

しかし江戸時代は3種類それぞれのお金に複数の単位があったのです。かなり複雑なことがわかると思います。

金貨:「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」
銀貨:「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」
銭貨:「貫(かん)」「文(もん)」

この中では小判の1両、銭貨の1文1貫(1貫文)はテレビで時代劇を見ている人なら馴染みがあると思います。

後ほど説明しますが、現在の貨幣価値で言うとだいたい1文は25円、100文は2,500円、1貫(1000文)は25,000円くらいに相当します。小判1両は10万円程度の価値がありました。

この中では銀貨にも「貫(かん)」があります。しかし銀貨の1貫は現在のお金で100万円程度の単位であり、小判10枚ほどの価値になります。あまりに高額なため、一般庶民が使う単位ではありませんでした。

単位の価値(交換比率)は?

それぞれ3種類のお金の価値の対比はどうなっているのでしょうか。

単位の交換比率を江戸時代前期と、貨幣の種類が増える後期に分けてまとめてみます。

前期(1601年~1764年)

単位の価値(前期)

金貨は「一分金」が4枚集まると、金1両と同じ価値になります。

江戸時代前期の銀貨は重さで価値を決める秤量貨幣(しょうりょうかへい)だったので、取引には豆板銀や、丁銀に豆板銀を合わせて重さを微調整していました。

銀貨の重さが合計60匁だと、金1両と同じ価値になります。

銭貨1000枚を紐につけたものが1貫文(重さ3.75kg)となり、4貫文で金1両と同じ価値になります。

(基本的にはこのような交換比率ですが、実際は変動相場制のため時期により異なっていました。)

後期(1765年~1868年)

単位の価値(後期)

江戸時代後期はかなり貨幣の種類が増えます。

1765年(明和2年)、田沼意次の改革が行われました。

それまで銀の塊の重さを計って価値が決められていましたが、銀貨も額面がついた計数貨幣となりました。

この改革により5匁という額面がついた「五匁銀」が発行されます。現在で言えば8,000円くらいの価値になります。

その後も銀貨は「明和南鐐二朱銀」「天保一分銀」など少しずつ計数貨幣が広まりました。

金貨も二分金や二朱金など種類が増えていきます。

銭貨は1文の4枚分の価値がある四文銭、1文の100枚分の価値がある百文銭(天保通宝)が登場します。

天保通宝もよく知られた貨幣だと思います。穴銭を100枚持ち歩く手間を考えれば1枚で済むので、当時の庶民にはとても扱いやすい貨幣でした。

しかし実際には天保通宝の材料として100枚分の銅は含まれていなかったので(銅の価値としては6文程度しかなかった)、あくまで形式上100文という名目貨幣でした。

それでも天保通宝1枚で現在の2,000円くらいの価値として使用されていたようです。

交換比率が変化していた

金貨・銀貨・銭貨の交換比率をまとめましたが、実は江戸時代は変動相場だったため交換比率は時代によって変わっていました。

もう外国為替のように考えてもよいくらい、それぞれの貨幣は独立していたのです。

変動相場制でしたが、幕府は何度か公定交換相場を発表します。この比率で運用しなさいよ、という目安の比率になるものでした。
(※実際の市場では毎日変動しました)

<初期 1609年>
■金1両=銀50匁=永楽通宝1000文=鐚銭4000文

<中期 1700年>
■金1両=銀60匁=4貫文(4000文)

<後期 1842年>
■金1両=銀60匁=6.5貫文(6500文)

<幕末 1865~68年>
■金1両=銀150匁=10貫文(10000文)

江戸時代初期は、同じ銭貨でも綺麗な「永楽通宝」は質の悪い鐚銭(びたせん)の4倍の価値がありました。

後期は銭貨の価値が下がり、幕末はさらに下がってハイパーインフレが発生し、庶民が買う米の値段は倍くらいになりました。

江戸時代は両替商が活躍

このような複雑な3種類の貨幣が存在したことで、金貨と銀貨、銀貨と銭貨などの交換の際には両替商が活躍しました。

越後屋『熈代勝覧』

なにせ毎日レートが変動するわけですから素人にはとても難しく、庶民は両替商に手数料を払って換えてもらいました。

(両替商という言葉は「金1両を他の貨幣に替える」が語源となっています)

商売しているお店側も交換手数料を払いたくないので、銭貨でしか受取らないなど、支払わせる貨幣を決めていたほどです。

このように、現在でいうと円をドルなどの外国通貨に交換するときに払う為替手数料が、当時は日常的に発生していたのです。

この江戸時代の経済には欠かせない両替商ですが、貨幣の交換だけでなく大名から預金を預かったり、送金作業を請け負ったり、手形を発行したり、貸付け業務も行なっていました。

ほとんど銀行のような存在だったので、大名に対しても影響力を持ち、どんどん力をつけていきます。

有名な両替商でいえば大坂は鴻池屋、江戸は越後屋(三井家)、他には住友があります。

三井・住友財閥は江戸時代から力を持っていたのですね。

庶民の財布に入っていたお金は?

貨幣の種類が複数あることを説明しましたが、では一般庶民が使うお金はどの種類なのでしょうか。

実際には一文銭、江戸後期は四文銭天保通宝(百文銭)、銀貨の豆板銀・一朱銀・二朱銀が多かったようです。

庶民の財布

支払いに使う貨幣は商品によってある程度決まっていたようで、薬や診察・家賃・呉服・大工などの高額な支払いは一分銀や金貨、日用品は銭貨が使われていました。

一分金などの金貨は庶民には非常に高価で、小判になると目にする機会もなかったようです。

ちなみに、東日本には金山が多いことから高級品は金貨で支払うことが多く、西日本には銀山が多いことから高級品は銀貨で支払うことが多かったようです。

そのため江戸では大坂から砂糖などを持ってくる商人(砂糖はオランダ船によって長崎へ輸入されていた)には銀貨で支払いをしていました。

現在のお金に換算すると?

江戸時代は変動相場であり時代によって価値は上下していました。

ただ小判1両はだいたい10万円くらいと言われています。

実際には10万以上にもなりますし、幕末には価値が下がって5万円くらいにもなりましたが、ここでは10万円と考えてみます。

そして1700年の公定交換相場は、

金1両=銀60匁=4貫文(4000文)となっていました。

この式に当てはめると10万円=4000文、つまり1文は25円です。1文銭は25円玉、ということになります。

100文は2,500円、1貫(1000文)は25,000円になります。

一分金の場合、1両の1/4の価値のであるため25,000円となります。

実際の物価は?

江戸時代の人々は、ふだんの生活で品物を購入する際いくら払っていたのでしょう。

ここでも金1両=現在の10万円と仮定して計算してみます。

■銭湯
銭湯の料金は比較的安定していて、幕末まではずっと6~8文でした。

現在のお金で言うと200円弱くらいになります。

■蕎麦
お蕎麦1杯は初期が6文(150円)、後期は16文(400円)となっています。

この金額なら特に不満はなさそうです。

■お酒
1升で80文(1600円)になります。

銘柄にもよるでしょうが、安い日本酒と考えれば現在と変わらないようです。

■旅館(旅籠)
江戸時代後期のデータですが、東海道にある旅籠で一泊二日食事付きが200文(5,000円)となっていました。

食事無しの旅籠もあるそうで、その場合はもっと安くなります。

江戸時代の宿泊代はけっこう安かったようです。

■家賃
江戸に住む庶民のほとんどは、通りの裏手にある裏長屋を、賃貸で生活していました。

間取りは4畳半に台所がついて九尺二間(3坪・6畳)の広さだったそうです。

3坪は一か月の家賃が銀10匁(月16,670円)となっていました。

風呂なし、共同トイレ、4畳半アパートの部屋で冬は寒いかもしれませんが、家賃16,670円は安いですね。

■医者
医者の診察は初診が20匁前後(33,300円)だそうです。

かなり高額で、二朱銀が3枚程度の支払いになります。

ただ医者を呼ぶ往診料になるとさらに距離によって料金が変わり、一里につき30匁も請求されたようです。

薬代は万病に効く「反魂丹」や解毒剤の「万金丹」は1袋で20文(500円)くらいでした。

お金がなくて医者を呼べない庶民は薬売りから薬を購入していたようです。

もちろん薬の種類によっても異なり、500文という記録があったり、高麗人参が1両以上もしたそうです。

■米1升(10合)(約2日分)
米の価格は変動が激しいです。

江戸時代初期は1升25文(現在のお金で625円)、中期には80文(2,000円)、後期は100~150文(2,500円以上)と値上がりしていきます。

もちろん豊作か凶作によっても毎年大きく変動したと思われます。

例えば江戸時代中期で考えると、1日5合を消費したとすると月1200文(月30,000円)かかります。

現在はお米5kg(約33合)ならスーパーで2,000円程度で売っているので、これは江戸時代初期の販売価格とだいたい同じになるようです。

ただ大政奉還直前の慶応年間(1865年~1868年)はさらに値上がりし、最高で1升16匁(26,672円)になりました。

この場合1日5合を想定すると月40万円の食費となってしまうので、江戸末期は米が簡単に手に入る状況ではなかったようです。

江戸時代の貨幣は高く売れる?

もし手もとに寛永通宝や金貨・銀貨があればいくらで売れるのでしょうか。

もちろん金貨であれば価値が高く数万円で売ることができます。

丁銀は数万円~百万円まで幅があります。

一分銀・一朱銀などは種類によりますが数千円~1万円以上となります。

銭貨は有名な「寛永通宝」は長い期間大量に作られて現存数が多いので数百円など価値は低いです。

ただそのような銭貨でも使用期間が短かった種類は数千円~1万円、またレアな「盛岡銅山」など10万円を超える銭銭もあります。

いずれにしてもわずかの違いで数倍も価値が変わるのが江戸時代の貨幣になります。

まとめ

ここまでご紹介したように、江戸時代のお金事情はかなり複雑になっていました。

ただ庶民が使っていたお金がどんなものか、また現在でどれくらいの価値があるかがわかると、理解しやすいと思います。

古銭にあまり興味がなかった人も、このページを読んで楽しさが伝わると嬉しいです。

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