銀行イメージ
銀行は、企業に融資をしたり個人の資産を預かったり、様々な経済活動を担っています。

では中世など昔の日本には銀行はあったのでしょうか?

江戸時代には両替商という、現在の銀行のもととなる商人たちが活躍していました。

江戸の金融を支えた両替商についてご紹介してみます。

中世の日本は商人が活躍

室町時代や戦国時代は、銀行業を営むような商人はいませんでした。しかし高利貸しの金融業者(土倉と呼ばれる)はいました。

高利貸しの多くは延暦寺など有力なお寺の僧侶であり、彼らは担保として物品を預かり、それに相当する銭を村人らへ貸し付けていました。

寺院には災害などに強い蔵や倉庫があることも金融業を行うことができる要因となりました。

また当時の酒屋も副業として貸金業を行うようになり、荷送り業なども行なっていて商人として力をつけていきます。

後で説明する江戸時代の鴻池家も、代々酒造業を営んでいました。

この頃の貸金業は現在で言うヤミ金のような存在で、村人とのトラブルも起きていたようです。

江戸時代は両替商が活躍

江戸の町並み

江戸時代になると戦はなくなり、町は発展して市場経済が活発になっていきます。

徳川家康は貨幣制度を打ち出し、貨幣は金貨・銀貨・銭貨を使用すること、またその交換比率まで決められました。

このためそれぞれの貨幣を交換・両替する機会が多く発生し、それまで商売としてお金を扱ってきた金融商人たちが活躍することになります。

両替業務

両替商はその名の通り、両替を業務として行います。(両替商という言葉は「金1両を他の貨幣に替える」が語源となっています)

金相場所という取引所で同業の両替商たちが集まって両替サービスを行い、交換比率が決まっていました。

当時は3種類の貨幣が存在していた複雑な金融経済であったため、両替商は為替取引のような役割を担っていたのです。

例えば銀貨を銅銭に交換したり、金貨を銀貨に交換するなどです。そのときに彼らは交換手数料を取ることで利益を得ていました。

また江戸時代の大名は参勤交代が課せられていました。大名たちは参勤交代にかかる莫大な資金を捻出するため、年貢米を売ることになります。

大坂には蔵屋敷が多く、規模の大きな米市場ができていました。大坂であれば年貢米をすぐに貨幣に交換でき、しかも高く売ることができたのです。

しかし、当時は「東国の金遣い・西国の銀遣い」と言われ、銀の産出が多かった西国の大坂では銀貨の取扱いが中心です。大名たちは江戸で使う金貨が必要だったため、年貢米で得た銀貨を、さらに金貨へ交換する必要があったのです。

そこで両替商の活躍となるわけです。参勤交代が実施されている以上、両替商たちも潤うことになりました。

貸付業務

この両替商は一気に富を増やしていき、顧客は町人だけでなく大名にも及び、貸付を行うようになります。現代の銀行業務と同じですね。

これを「大名貸(だいみょうがし)」といい、また力のある社寺による「祠堂銭(しどうせん)」という貸付も行われました。

藩にお金を貸すわけですから、藩主も頭が上がらないことになります。実際に両替商が藩の財政を把握するほどだったそうです。また貸付だけでなく大名からの預金も請け負っていました。

このような両替商や寺院は大口取引をしていて、対象は商人や領主、大名です。

一方、庶民の貸付には規模の小さい金融業者が行なっていました。

室町時代などの貸付はさらに発展していて、その日に返す「日銭貸し」や一夜だけの「烏金」、無担保の「素金」などがありました。

サービス名を聞いただけでも、いかにもトラブルになりそうです。実際に返済できない場合は農地を取られたり、娘を売りに出すなどの悲惨な現状がありました。

為替決済業務

現代でも当時でも、商取引で動く大きなお金は簡単に持ち運びできません。

そのため両替商は為替手形を発行し、商人たちは高額の商取引を円滑に進めることができました。

例えば江戸の商人が、天下の台所と言われた大坂の商人から品物を50両で仕入れるとします。

江戸の商人は50両を大坂へ支払うわけですが、ここで江戸にある両替商を利用します。まず50両を両替商へ支払い、その代わりに発行された為替手形を受け取ります。

江戸の商人はこの手形を飛脚で大坂へ届け、手形を受け取った大坂の商人は大坂の両替商へ手形を持ち込み、代金の50両を受け取ることができました。

これは現在の銀行業務と全く同じですね。当然両替商は手数料を取るので、経済が活発になればなるほど為替決済の利用が増えて利益を得ていたことになります。

このように、当時の両替商は江戸と大坂を仲介してお金の流れを潤滑にしながら、利益を得ていました。

経済発展とともに金融業も活発化し、その後明治時代になって現在の銀行が誕生することとなります。

鴻池屋

鴻池家は、戦国武将である尼子氏の山中鹿之助の子孫、山中新六から始まったと言われています。

山中新六<山中新六画像>出典元:Wikipedia

山中新六は鴻池村で酒屋を営み、清酒を製造したことで商売に成功します。その後、新六の八男の善右衛門正成は大坂で鴻池善右衛門家を名乗り、海運業を始めます。

当時大坂は天下の台所と言われ、全国から物が集まっていました。

大坂の町の構造は水運が張り巡らされていて水運に適していました。集まった物品を人口の多い江戸へ運ぶ需要は非常に多かったのです。

そうして富を得た鴻池善右衛門家は明暦2年(1656年)に両替商を始め、大名を相手にさらに多額の冨を得ることになります。

幕末には資産が銀五万貫とも言われ、当時の国家予算に匹敵するほどだったそうです。

明治に入ると鴻池屋は三井のような新政府との協調路線は取らず、地方銀行である第十三国立銀行(鴻池銀行)を設立します。

1933年には鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が誕生します。

ご存知のように2001年、三和銀行はUFJホールディングス、2005年に三菱東京フィナンシャル・グループと合併することになります。

江戸時代に日本の金融経済を支えた鴻池屋は、現代でも三菱東京UFJ銀行としてその影響力を残しています。

まとめ

  1. 江戸時代になって両替商が力を持った
  2. 高利貸しは中世日本にもあった
  3. 両替商は預金・貸付・為替決済を業務としていた
  4. 鴻池屋は現在では三菱東京UFJ銀行に

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