江戸時代の貨幣を勉強していると、必ずといっていいほど「出目」というワードが出てきます。
幕府の財政が苦しいときに金貨・銀貨を入れ替える政策だそうですが、これだけでは意味がわかりにくいと思います。
このページでは実際に行われた出目について、例を挙げて解説しています。
現代の財政改革
現在であれば、日本が不況に陥るとどのような財政改革が行われるでしょうか。
例えば日本銀行の総裁が金利を引き下げて市場にお金が出回りやすいようにします。これは金融政策になります。
また政府が所得税や法人税、消費税など、増税を行います。また公共事業を増やす方法もあります。これは政府が行う財政政策になります。
現代であれば政府の収支をプラスにするため、これらの財政改革が行われることになります。
江戸時代に行われる財政改革とは?
では江戸時代の幕府は財政が苦しくなるとどのような財政改革を行ったのでしょうか。
わかりやすいのは年貢率のアップだと思います。これは現代で言えば増税になります。
例えば有名な徳川吉宗の享保の改革では、年貢を四公六民から五公五民として取り立てを厳しくしました。
幕府の取り分を収穫の4割から5割へと増やし、民の取り分は6割から5割へと減らされています。
当時はこの年貢率アップをすると、現代ではあり得ないですが一揆がすぐに発生してしまい、その対処も大変だったようです。
吉宗は米の収穫量を増やすため新田開発も行いました。これは現代で言えば公共事業になります。
この改革で財政収支は落ち着いたと言われています。
江戸時代の財政改革は享保の改革の他に、寛政・天保の改革も有名です。
ただいずれの改革も米に関する改革となっていて、一時的な効果しかないものでした。
改鋳による出目(利益)
年貢率アップや新田開発など以外に、もう一つ、接お金を増やすことができる裏技のような財政改革があります。
それが改鋳による出目(利益)獲得になります。
簡単に言うと、町で使用している金貨・銀貨をすべて回収し、金銀の含有量を減らした金貨・銀貨に入れ替えさせるのです。これを改鋳といいます。江戸時代に合計8回行われました。
回収した金貨・銀貨は溶かして金銀に戻し、幕府の財産とします。この回収した金銀より新しい貨幣に使われた金銀は少ないので、その金銀の差分が利益となるわけです。これが出目になります。
新たに発行した金貨・銀貨は品位が下がっているわけですから、当然減った金銀の含有量が本来の価値となるのですが、そこは江戸時代。
お上の権威によって(金銀は減ったが)これまでの金銀と同じ価値である!、と堂々と発表するのです。
今では考えられないことですが、当時はこれが通用するので、財政が苦しくなると幕府はこの改鋳を実施して、財政の収支をプラスにしていました。
幕府は実際にどのくらい収益があった?
改鋳の出目による幕府の利益は非常に大きなものでした。
例えば、元禄期(1688年~1704年)の改鋳を例に挙げてみます。
江戸幕府が始まって慶長小判・慶長一分金が作られ財政は安定していたのですが、約90年後の将軍徳川綱吉の代になると、綱吉は豪遊を重ねて幕府の財政は苦しくなります。
また慶長金は90年も使用されたことでボロボロになっていて、新たな貨幣に替える必要性もありました。
そこで、幕府は流通していた慶長小判・慶長一分金などの慶長金を元禄金へ改鋳することにします。
慶長金(慶長小判・慶長一分金)は金の含有量が約86%でしたが、新しく作られた元禄金(元禄小判・元禄一分金)は約56%と決められ、なんと1枚の金貨に含まれる金の量を約30%も減らした3割カットをしたのです。
では残りの材料はなにかと言うと、銀を使うのです。元禄金には約43%もの銀が含まれていて、実際には金と銀が半分ずつの貨幣だったのです。
元禄大判については慶長大判よりも約20%引き下げました。大判は1枚に使う金の量が多いので、2割カットはかなりの節約となりました。
元禄丁銀や元禄豆板銀も、銀の量を20%引き下げました。では残りの材料はなにかというと、銅を使うのです。元禄丁銀・元禄豆板銀には約35%の銅が使用されました。
幕府はこのような節約した金銀貨幣に入れ替えることによって、(萩原重秀の記録によると)約500万両の収益を得たようです。
江戸時代中期の国家予算は80万両ですから、500万両というのは数年分の収入になります。
現在の日本政府の国家予算は約100兆円ですから、現代でいえば600兆円の臨時収入があったことになります。とんでもない財政改革ですね。
この改鋳による出目獲得は、宝永期(1704年~1711年)にも実施されました。財政収支を補う目的と、元禄金も長い期間使用されたため新たな貨幣への切り替えが必要でした。
宝永金の品位は約83%と非常に高いのですが、金貨のサイズが小型化されています。
元禄小判が4.76匁(17.85g)だったのに対し、宝永小判は2.5匁(9.375g)しかありませんでした。結果的に使用する金の量は20%減らしています。
この宝永の改鋳による幕府の収入は約590万両となっています。
改鋳でインフレが多発
いくらお上の命令とはいえ、町人は金貨・銀貨に含まれる金銀が少ないことはわかっていました。
当時でも実際の含有量を正確に調べることは難しくなかったようです。また使用していると表面が剥がれて実際は金貨なのに銀が多い、銀貨なのに銅が多い、ということが判明したのです。
そのため商売においても改鋳で品位が落ちた金貨・銀貨の価値は低いと判断され、物の値段が上がるインフレが発生します。銀貨1枚で購入できた品物が銀貨2枚くらいでないと購入できなくなったのです。
元禄の改鋳でもインフレは発生しましたが、問題になるほどではありませんでした。しかし宝永の改鋳は極端だったため激しいインフレとなりました。
特に銀貨の使用が中心の大坂では打撃を受けます。売られていた肥後米の一石は宝永5年(1708年)では銀70〜80匁だったのが、正徳3年(1713年)には155匁と倍に上がりました。
数年でここまで高騰するわけですから、大坂の経済は大混乱となったでしょう。
幕府はこの激しいインフレを抑えるため、新井白石による正徳の改鋳(1714年)を実施、金銀の含有量を一気に増やすことにしました。しかし価値の変化が急激すぎたため、今度はデフレが起こり経済は停滞します。
当時は武士への給与に米を支給していましたが、デフレにより価格の下がった米を支給することとなり、給与が減る事態が起きてしまいました。
しかしその後、元文の改鋳(1736年)では大成功となります。経済発展につながる適正なインフレと適正な通貨増加が起きる金銀含有率となり、ようやく数十年は経済が安定することになります。
どうやら江戸時代は貨幣量を操作することで物価の上昇や下落が起きることにはスムーズに対応できなかったようです。
含有量が少ない金貨は金色なの?
慶長金や正徳金は金が85%ほど含まれているので綺麗な黄金色でした。しかし、改鋳によって銀が多く含まれた元禄金などは色が薄くなるはずですよね。
例えば指輪でも純度がK18よりK10だと鮮やかな金色ではなくなると思います。それと同じで、本来は元禄小判やその他の含有量が少ない金貨は銀色に見えるはずなのです。
しかし、実際には綺麗な金色でした。これは金貨を作る金座で綺麗に見せる細工が行われていたのです。
緑礬や焔硝なと鉱物から採れる6種類の成分を合わせた「色付薬」を用い、金貨の表面に塗って焼きます。
そして焼いた金貨の表面を磨くと、なんと化学反応によって非常に薄い金の膜が出来上がるのです。これにより、見た目は完全な金色となるわけです。
かなり悪質な手法なのですが、このような膜は使用とともに剥がれるので、庶民にはバレていたようです。
また銀貨も表面だけ綺麗な銀色にしてありました。
例えば宝永三ツ宝丁銀は銀の含有量は41.6%、宝永四ツ宝丁銀は20%という、非常に少ない含有量でした。(慶長丁銀は80%、元禄丁銀は64%)
そのため時間の経過とともに表面に塗られた銀の部分が剥がれ、中の銅が見えるようになったのです。実際に貨幣を使っている人々には、お上の言う価値がないことはすぐに気づいたと思います。
文政の改鋳
天明期(1781年~1789年)になると、大飢饉や一揆の発生によって財政が圧迫されます。
老中の松平定信は寛政の改革を実施しますが、経済は停滞し幕府の出費が増加してしまいます。将軍家斉の豪遊も原因とされています。
そこで老中水野忠成によって再び出目獲得を目的とした文政の改鋳(1819年)が行われます。
元文金の含有率66%から文政金は56%へと引き下げられ、文政丁銀は36%へ引き下げられます。幕府はこの文政の改鋳で約600万両を手に入れたとされています。
天保・安政・万延の改鋳
その後の天保の改鋳(1837年)では金貨の含有率は約56%とほぼ同じものの、金貨サイズを小さくして金量を減らす改鋳を実施します。文政小判は3.5匁(13.11g)でしたが天保小判は3匁(11.24g)となりました。
天保丁銀の銀の含有率は26%にまで下げられています。
ここでも幕府は改鋳を行い赤字の収支を補填していました。
安政期(1855年~1860年)になると、黒船来航により外国と取引を求められるようになります。
外国の武力に逆らえない日本は、海外の銀貨と日本の金貨の交換を上手く利用され、日本の金貨は大量に海外へ流出する事態が起きました。
この金の流出を防ぐため、幕府は安政の改鋳(1859年)で安政小判を含有量は同じままで重さを2.4匁(8.99g)とさらに小型化します。これによって外国商人は交換するメリットがなくなり、金の流出は止まりました。
安政丁銀にいたっては銀を13%まで含有率を減らしました。この頃の銀貨はほとんど銅貨となっています。
そして万延小判は重さが0.88匁(3.30g)と、非常に小さくなっています。慶長小判が17.85gでしたから、1/5程度の体積となっています。
江戸幕府にとっては改鋳は必須
このように江戸時代は改鋳が繰り返されました。
幕末は金の流出を抑える目的で改鋳が実施されましたが、それ以前の改鋳では苦しい財政収支による出目獲得のため、また古くなった金貨・銀貨を入れ替えるために改鋳が行われました。
幕府にとっては財政収支を安定させるのに非常に効果があり、また市場経済にとっては流通貨幣の増加によりインフレが発生して経済発展につながりました。
極端なインフレが起きることもありましたが、その後に対応することで市場が活発化することにつながりました。
まとめ
- 金貨・銀貨の改鋳は合計8回行われた
- 改鋳により幕府は数年分の収入を得た
- 幕末の改鋳は金の流出防止が目的
- 適正な改鋳は江戸時代の経済発展につながった