古銭といえば、歴史を感じられる魅力的な収集アイテムです。
コイン販売店で入手したり、また価値の高い古銭を売るなども楽しみの一つだと思います。
まだあまり古銭を知らない人にとっては、
「日本の貨幣の歴史についても知りたい」
と思うのではないでしょうか?
貨幣の歴史は物々交換から始まり、アイデアを駆使して様々な種類の貨幣が生まれることになります。
このページではそんな貨幣の歴史についてまとめてありますので、古銭を勉強してみたい人に役立つと思いますよ。
大昔は物々交換だった
まだ貨幣が誕生していない大昔、人々は物々交換をしていたのはみなさんご存知だと思います。
例えば自分が持ってる果物を渡して、代わりに米を手に入れるというような方法です。
人々はこのようにして欲しいものを手に入れることで、日々の生活を送っていました。
物々交換は、人間の経済活動の原点と言えるでしょう。
しかし物々交換では、相手が自分の渡す物を欲しくないと交換が成立しない、というデメリットが発生します。
「欲しいものがあるのに手に入らない…」
これでは生活が不便になってしまいます。
人々はこれに気づいて、いつでも取引ができる交換アイテムを考え始めます。
中国では古くから貨幣が存在していた
物々交換が不便だと気づいた人々は、取引に使えるモノを見つけます。
それが貝殻を貨幣とした物品貨幣です。
まずアジアでは中国が殷・周の時代に、この貝殻をお金として使用していました。
殷の時代は紀元前1600年頃ですから、日本はまだ物々交換をしていた縄文時代になります。
中国での貨幣の歴史は日本よりずっと古いことがわかります。
青銅貨幣の登場
貨幣が登場して経済活動が進めましたが、貝殻だと耐久性が低いデメリットがあります。
使っているうちにすり減ったり割れるようでは、貨幣として適していません。
そこで、春秋時代には青銅が貨幣の原料として使われ始めます。
金属であれば磨り減ることはありませんから、最適な素材なのです。
ちなみに、青銅といえば青緑色の金属を思い浮かべると思いますが、実は元の色は白銀なのです。
遺跡で出土する青銅器は青緑色になっていますが、あれは経年劣化で酸化してあのように変色しているのです。
当時の人々にとっては白銀色の綺麗な貨幣だったでしょう。
半両銭の登場
青銅貨は便利な貨幣でしたが、まだ不便な点がありました。
それは形がバラバラなことです。
四角であったり、包丁のような刀貨も存在し、また重さもありました。
中国を統一した秦の始皇帝は、使いやすい丸型の環銭を貨幣として統一することにしました。
原料も青銅ではなく銅を使用しました。
これが半両銭と呼ばれる貨幣で、現在の硬貨に元になる貨幣でした。
そしてこの半両銭が、弥生時代の日本へも伝わり、福岡県や山口県の遺跡から計25枚が出土しています。
開元通宝の登場
中国ではその後、前漢の武帝が五銖銭を製造し広まります。
そして西暦618年に誕生した唐の時代に、開元通宝が製造されます。
この開元通宝で中国は貨幣の統一に成功し、以降300年間も使用されました。
この開元通宝は日本へも流入し、日本の貨幣の歴史に大きな影響を与えます。
いよいよ日本で鋳造が始まる
中国が開元通宝を使い始めた頃、日本では物品貨幣が使用されていました。
例えば米・塩・布などが、銀を尺度として同じ価値の品物と交換されていました。
そして飛鳥時代(592年~710年)に初めての国産貨幣が鋳造されます。
それは銅銭の富本銭(ふほんせん)です。
「最も古い貨幣は和同開珎じゃないの?」
と思う人もいると思いますが、実は富本銭は7世紀後半の地層から出土したため、これが最古となるようです。
富本銭がどのくらい使われていたかは不明で、まじない銭かもしれないので日本初の貨幣と言われても複雑な気持ちになる人も多いかもしれません。
一応、日本書紀には天武天皇が683年に銅銭を使うことを指示した記録があるそうなので、和同開珎以前に銅銭が存在したことは確かなようです。
(それ以前に銀貨の無文銀銭が作られていましたが、当時は銀の価値があまりなかったらしく、最初の通貨とは考えられていないようです)
和同開珎の登場
そして飛鳥時代末期の708年に、大陸から伝わった開元通宝を見本にして「和同開珎」(わどうかいちん / わどうかいほう)が作られます。
奈良時代(710年~794年)は貴族から庶民にまで広まり、日本の経済基盤を支える重要な貨幣となりました。
日本初の流通貨幣を挙げるなら、「和同開珎」で間違いないでしょう。
当初は原料は銅貨だけでなく、銀貨の「和同開珎」も作られました。
朝廷にとっても平城京の遷都や多数ある宮殿建築の出費として貨幣は大いに役立ちました。
その後も銅銭が作られ、「和同開珎」も含めそれら12種類の貨幣を「皇朝十二銭」と呼びます。
ちなみに、奈良時代の760年には藤原仲麻呂によって日本初の金貨「開基勝宝」が鋳造されています。
ただこの金貨は流通目的の貨幣ではなかったようです。
銅の不足が起きる
その後も銅銭の鋳造は続きます。
奈良時代から平安時代(794年~1185年)に入っても引き続き「皇朝十二銭」が鋳造されていました。
760年「万年通宝」
765年「神功開宝」
796年「隆平永宝」
818年「富寿神宝」~
と順に続いていきます。
しかしここで問題が起きます。
国内で銅の生産が追いつかす、銅銭に含まれる「銅」の割合が年々減っていったのです。
銅の割合が減って安価な素材がたくさん混ぜられたため、耐久性が低くボロボロになってしまうのです。
皇朝十二銭はいつの間にか、粗悪な品質の貨幣となっていきました。
ついに、958年の「乾元大宝」を最後として国内の鋳造がストップしてしまいます。
(この頃、金貨・銀貨も鋳造が始まりましたが、非常に高価であることから広まりませんでした)
大陸の銅銭を使用
銅の生産が追いつかないことで、銅銭は不足してしまいます。
しかし平安時代末期になると宋とつながりを持っている平清盛が実権を握るようになります。
平清盛は日宋貿易によって宋銭を日本に流入させることを決定します。
平氏の滅亡以降の鎌倉時代(1185年~1333年)も宋銭は正式な貨幣として使用されることになります。
鎌倉時代中期からは年貢は米・布・絹などではなく、それら現物を商人に売って得た貨幣を納める「代銭納」が広まりました。
室町時代(1336年~1573年)には日明貿易が行われてさらに銅銭が輸入されます。
その際「永楽通宝」(1411年~鋳造)が輸入され、国内で普及しました。
品質の劣る私鋳銭が広まる
しかし、物品貨幣に代わり全国で貨幣が主な経済取引のツールとなるほどの銅銭の量はありませんでした。
「永楽通宝」だけでは足りず、大陸から品質の劣る渡来銭も大量に入ってくるようになります。
また、各地の豪族が独自に銅銭らしき貨幣をたくさん作ってしまいます。
これは私鋳銭(しちゅうせん)と呼ばれ、とても品質が悪い銅銭です。
渡来銭や私鋳銭は鐚銭(びたせん)とも呼ばれ、「ビタ一文」という言葉はここから生まれました。
安土桃山時代(1573年~1600年)には大陸との貿易が停止したため良質な貨幣が入って来なくなり、さらに貨幣事情は悪化します。
日本各地で自由に私鋳銭が作られ、良質な硬貨(永楽通宝)とボロボロの硬貨が入り乱れる状態になりました。
あの織田信長も、撰銭令(えりぜにれい)を出して質の悪い鐚銭の価値を良質な銅銭より低くするレートを決めたほどです。
戦国時代は金山・銀山の開発は活発に進みました。
しかし鋳造された丁銀は当時にはあまりにも高価だったので、一般の商取引に使用できる貨幣とはなりませんでした。
また武田家の甲斐国で「甲州金」が、豊臣秀吉が「天正大判」、「天正通宝」を鋳造しましたが、褒章用や貿易用途のお金であり、こちらも一般庶民向けではありませんでした。
江戸時代に貨幣制度が整えられる
江戸時代(1600年~1868年)になると新たな貨幣制度が整えられます。
江戸幕府を開いた徳川家康は1601年、全国の貨幣を金貨、銀貨、銅貨とする三貨制度を導入します。
金貨
金貨は、江戸初期には大判、小判、一分判金の3種類がありました。
大判は大名の貿易や褒美用途なので一般庶民は目にすることはありませんでした。
小判や一分判金も主に東国の上級武士が使用していました。
金貨の単位 「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」 金1両(小判)=4分=16朱 |
一分判金は1両の1/4の価値、一朱金はさらに1/4の価値となります。
1両は概ね現在の10万円相当になるようですが、当時は為替が変動していたので高くなったり低くなったりしていました。
1601年の鋳造以降、幕末まで次々と鋳造されます。
<小判>
1601年「慶長小判」
1695年「元禄小判」
1710年「宝永小判」~
<一分判金>
1601年「慶長一分判金」
1695年「元禄一分判金」
1710年「宝永一分判金」~
二分判金は江戸時代後期の1818年(文政元年)から使用されました。
<二分判金>
1818年「文政二分判金(真文二分半)」
1828年「文政二分判金(草文二分半)」
1856年「安政二分判金」
一朱金と二朱金も「元禄二朱判金」を除き、主に江戸時代後期から補助貨幣として使用が始まります。
1697年「元禄二朱判金」
1824年「文政一朱金」
1832年「天保二朱判金」
銀貨
銀貨は丁銀・豆板銀になります。
銀貨の単位 「貫(かん)」「匁(もんめ)」「分(ふん)」 1匁=10分、1000匁=1貫 |
1700年時点での、幕府公式の両替率はこのようになります。
金1両=銀60匁(約225g)=4貫文(4000文)
銀貨は江戸時代中期まで秤量貨幣が続き、商人は銀貨の重さを量って(1匁=約3.75g)価値を決める使い方をしていました。
そのため江戸時代は両替商が活躍し、金銀銅の交換や預金、貸付など様々な業務を行います。
丁銀の価値は、例えば「元禄丁銀」は約157gなので、これ1つでは金1両より少し低い価値となります。
丁銀は1601年の「慶長丁銀」を初めとして、様々な種類が鋳造されます。
1601年「慶長丁銀」
1695年「元禄丁銀」
1710年「宝永二ツ宝丁銀」
1714年「享保丁銀」
1820年「文政丁銀」
1765年(明和2年)、田村意次の改革によって銀貨も額面で価値が決まる計数貨幣へと変更されました。
1765年「明和五匁銀」
1837年「天保一分銀」
1829年「南鐐二朱銀」
銅貨
江戸時代になると再び国産の銅銭(鉄銭も)が鋳造されます。
銅貨の単位 「貫(かん)」「文(もん)」 |
紐に1000枚通した束が、1貫文(重さは約3.7kg)となります。
1700年時点の両替率で考えてみます。
金1両=銀60匁(約225g)=4貫文(4000文)
金1両が約10万円とすると1貫文(1000文)は25,000円となり、1文は現在の約25円くらいになります。(幕末は金品位の低下により約15円に下落します)
銅銭の種類には幕府が発行したものや地方で発行されたもの、長崎でオランダとの貿易用や庶民がお守りに作った絵銭など、様々発行されました。
まず1606年に「慶長通宝」が発行されました。
「慶長通宝」は奈良・平安時代の「皇朝十二銭」以来、600年ぶりに公に鋳造され広まった銅銭となりました。
それまで良銭として100年以上使われた「永楽通宝」はこのとき廃止となります。
そのあと3代将軍家光の代に「寛永通宝」が発行され、「寛永通宝」は江戸時代末期までの約240年継続して庶民が使用した貨幣となりました。
他にも元号や地名が入った銅銭が多種類鋳造されました。
「文久永宝」
「宝永通宝」
「仙台通宝」
「天保通宝」
紙幣の発行開始
江戸時代には初めて紙幣が発行されました。
1610年、商業が盛んな伊勢国の町衆が取引に便利な紙幣「山田羽書」を作ります。
この「山田羽書」は幕末まで使用されることになります。
またそれぞれの藩でも藩札が発行されていて、幕末には1600以上も種類があったそうです。
近代の貨幣
明治時代
明治時代(1868年~912年)に入ると新たに貨幣制度が整備されます。
政府は戊辰戦争の軍費調達のため「太政官札」を発行し、これが初の政府紙幣となりました。
その他、江戸時代の藩札もまだ使用されていて紙幣が乱立する状態となります。
政府は1871年(明治4年)、通貨制度を一新するため新貨条例(しんかじょうれい)を制定し、円・銭・厘の単位を導入しました。
同時に
旧金貨(1円、2円、5円、10円、20円)
銀貨(5銭、10銭、20銭、50銭)
銅貨(1銭、半銭、1厘)
が1920年頃まで発行されました。
1872年(明治5年)、全国に乱立している紙幣を統一するため政府紙幣「明治通宝」が発行されます。
当時の日本はまだ印刷技術がなかったのでドイツへ「明治通宝」の印刷を委託し、その後ドイツからの提供を受けて印刷技術が国内へ伝わります。
(この頃、江戸時代に使われていた丁銀・豆板銀、小判・一分判金・一分銀、太政官札や藩札は運用停止となります)
1872年(明治5年)には国立銀行条例が制定され、銀行が紙幣を発行できるようになります。
翌年に金貨と交換可能な兌換紙幣「旧国立銀行券」(アメリカへ外注)が発行されます。
1877年には西南戦争が起き、戦費拡大により大量に紙幣を発行したことからインフレが起きてしまいます。
そこで政府は1882年に日本銀行を設立してデフレ政策を行いインフレを解消、1885年に銀本位制を導入して銀貨と交換できる兌換銀券を発行しました。
1897年、日清戦争に勝利した日本は多額の賠償金を得て銀本位制から金本位制へ切り替えを行い、金と交換できる兌換券が発行されました。
金貨・銀貨・銅貨も新たに発行されています。
1899年「甲号券 裏猪10円」
大正時代
大正時代(1912年~1926年)に入ると、日本は好景気を迎え紙幣の取引量が増えます。
1917年、それに合わせて20円札「大正兌換銀行券 横書き20円札」「乙号券 20円札」が発行されました。※画像出典:文鉄・お札とコインの資料館
大正時代も硬貨が発行されています。
昭和時代
そして昭和時代(1926年~1989年)に入ると1929年(昭和4年)に世界恐慌が起こります。
これにより金本位制が破綻、それまで金と交換できた兌換紙幣を廃止します。
1937年から日中戦争が始まり、50銭銀貨を温存するため50銭の小額紙幣「富士桜50銭」が発行されました。
この頃、臨時補助貨幣としてアルミニウム貨幣が発行されます。
そして太平洋戦争が始まり、紙幣は粗悪な作りになっていきます。
1942年、中央銀行制度を改正するため、(旧)日本銀行法が制定されます。それまでの日本は金本位制だったため日本銀行が保有する金の量までしか日本銀行券を発行できませんでした。
しかしそれでは増大する軍事費を補えないため、保有する金の量に関わらず日本銀行券を発行できるようにします。(これにより管理通貨制度への移行となります)
1943年、日本銀行法に基づいた最初の日本銀行券「ろ号券 3次5円札」が発行されます。
※画像出典:文鉄・お札とコインの資料館
それ以降、紙面の「兌換」はなくなり、「日本銀行券」の表記となります。
1944年「聖徳太子100円紙幣」
終戦直後は貨幣不足となり紙幣・硬貨が緊急に発行されました。
そして1948年に現在有効な硬貨として最も古い5円黄銅貨(無孔)が発行されます。(翌年に有孔の楷書体へ変更)
戦後はハイパーインフレに対応するため「新円切り替え」が行われ、新券(A号券)が発行されます。
1946年「A号券100円札」
1948年「A号券5銭札」
1951年(昭和26年)には平等院鳳凰堂が描かれた10円硬貨が登場し、昭和28年から流通します。
1953年(昭和28年)には「銭」単位が廃止となります。
戦後の経済成長とインフレが起き物価が上がっている状況では、小さい単位の「銭」は不要となったのです。
その後A号券は粗悪な品質だったため、改良したB号券が発行されます。
世代の人には懐かしい肖像画のお札が登場します。
1950年「聖徳太子1000円紙幣」
1953年「板垣退助100円紙幣」
日本は高度経済成長に入り、紙幣の額面も大きくなっていきます。
次に発行されるC号券は印刷技術が高く、紙の耐久性は増して高品質な紙幣となりました。
1957年「聖徳太子5000円紙幣」
1958年「聖徳太子10000円紙幣」
1963年「伊藤博文1000円紙幣」
1955年(昭和30年)には1円アルミニウム貨、50円ニッケル貨が発行されます。
1957年(昭和32年)には100円銀貨(鳳凰)が発行され、2年後にデザインを(稲穂)へ変更されます。
1959年(昭和34年)に5円玉・10円玉も現行デザインとなります。
100円・50円硬貨は1967年(昭和42年)から素材が白銅貨に変更され、デザインも現行のものになります。
1982年(昭和57年)には500円白銅貨が発行されます。(2000年(平成12年)に素材をニッケル黄銅貨へ変更)
紙幣もさらに馴染みのあるデザインが登場します。
1984年「夏目漱石1000円紙幣」
1984年「福沢諭吉10000円紙幣」
1984年「新渡戸稲造5000円紙幣」
平成時代
2004年に新発行された1000円札はいつも使用している現行のお札になります。
2004年「野口英世1000円紙幣」
この年、5000円札には日本銀行券の肖像画として初の女性である樋口一葉が採用されました。
2004年「樋口一葉5000円紙幣」
2004年に1万円札が新券発行となりますが、初めて肖像画の人物に変更がなく、福沢諭吉が継続採用となりました。
2004年「福沢諭吉10000円紙幣」
まとめ
以上、日本の貨幣の歴史をまとめてみました。
これまでに古銭を知らなかった人でも、時代別に振り返ることで貨幣の名前と時代が把握できたのではないでしょうか。
もし自宅に古銭がある場合は、いつの時代の古銭なのか、価値はいくらになるのか、調べてみるのも面白いと思いますよ。