金吹方之図

江戸時代は、徳川家康が全国の貨幣制度を整えて銭貨や銀貨、金貨を作りました。

中でも価値の高いのは金貨で、小判や一分判金などが広まりました。

そしてこの金貨だけを専門に、ある人物に作らせていたのです。

実際に作っていたのは誰なのか、まとめてみました。また実際に金貨を作っていた金座についても解説しています。

後藤家に金貨の鋳造を依頼

徳川家康は江戸幕府を開いた後、それまで大陸からの銅銭が貨幣でしたが、全国の統一貨幣を作ることにしました。

そこで貨幣の鋳造を幕府内ではなく、すでに鋳造技術を持っている町人の力を借りて貨幣の鋳造組織を作ることにします。

家康は京都にある、室町幕府以来の御用金匠の後藤家へ依頼することにしました。

その後藤家から後藤庄三郎光次を当主として、金貨を担当させることにしたのです。

後藤庄三郎光次とは

豊臣時代の1593年、京都で橋本庄三郎という人物が名門の御用金匠、後藤家で職人として働いていました。その腕が広く知られるようになり、家康に江戸へ呼ばれて面会することになります。

家康はこの橋本庄三郎を気に入り、後藤庄三郎光次という名を与えます。

江戸本町一丁目を与えて後藤屋敷を建てさせ、御金改役として金貨の検品を任せることにしました。後藤庄三郎光次はこの金座の当主となります。

周辺には吹所という金貨鋳造施設を建て、小判師たちが日々金貨を作り、後藤庄三郎光次が管理する組織となりました。

家康は江戸幕府を開いた後、全国の貨幣を統一するため改革を行いますが、金貨の鋳造は全て江戸末期までこの後藤家が担当することになるのです。

金貨には「光次」と刻印

小判には、後藤庄三郎光次が承認した証として「光次」の署名が刻印されています。後藤家の花押も刻まれています。

元禄小判

これは小判だけでなく小さい金貨にも刻印されています。

安政二分判金

これらの金貨は江戸時代の最後まで作られることになりますが、後藤家は世襲制のため、代々同じ名を子孫が引き継ぎました。

そのため江戸時代中期や末期の小判や金貨にも「光次」の文字が刻まれているのです。

金座の仕事は多い

金貨の鋳造

金座は後藤庄三郎光次や多くの彫金師によって日々金貨が鋳造されていました。

小判や金貨を鋳造し、完成した金貨は幕府勘定所へ上納され、幕府が発行する貨幣となります。

例えば5万両を鋳造する場合、500人程度の職人が必要だったようです。

金が大量にある場所に、これだけ多くの人々が入るわけですから、不正対策も大変です。金貨の鋳造方法や幕府の貨幣政策が口外されることがあれば一大事です。

そのため金座で働くには血判起請文を提出が必要だったそうです。

金座での職人の様子は、「金吹方之図(かねふきかたのず)」という江戸時代の絵図に残されています。

金吹方之図

金吹方之図出典元:国立公文書館デジタルアーカイブ

吹場で焼金をしたり、延ばして延金とするなどの作業が描かれています。

金貨の製造は機密情報であったため、この絵図は横に長く絵が分割して描かれているのですが、製造工程の順番通りではないように入れ替えられてあります。

金の鑑定・回収

しかし金貨の鋳造だけが仕事ではありませんでした。

佐渡島の佐渡金山、静岡県の土肥金山など各地にある金山から採れた金は全て、江戸の金座で品位鑑定を行い、幕府へ上納されていたのです。

この品位鑑定は後藤役所が担当していましたが、不正が相次いだため、金座人役所が管理して御金改役が立ち会うなどの方法が取られました。

不正が発覚して金座人や後藤役所人らが処分されることがあったようです。

そして幕府は流通している金貨を一斉に新しい金貨と入れ替える際の回収や管理も、この金座で行われました。

当初は駿府・京都・佐渡・甲府に金座が設置されましたが、元禄期に江戸へ統合され、全てを江戸で管理することとなったのです。

現場で働く彫金師や当主である後藤庄三郎光次は多忙であったようです。

金座の報酬

後藤家の報酬としては、吹高1000両につき10両が与えられました。

おおまかな計算ですが、1両は現在の10万円に相当すると考えれば100万円の収益ということになります。

江戸幕府は継続的に金貨の鋳造を行っていたので、この独占的な利権は大きなものでした。しかも他業者は参入することはできず、後藤家は世襲制のため一族は経営者として運営を任されるのです。

後藤家は子孫まで安泰だったというわけです。

まとめ

  1. 金貨は後藤庄三郎光次が鋳造していた
  2. 小判には全て「光次」の刻印
  3. 江戸幕府の金貨や回収などは全て後藤家が担当
  4. 世襲制のため幕末まで継続していた

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