東京には「銀座」という街がありますが、ここは江戸時代に銀貨が作られていた場所で、地名として名前が残っています。
では金貨を作っていた金座という場所もあるのでしょうか?
他にも銅銭は銅座で作られています。それらの場所も調べてみました。
金座・銀座・銭座とは?
江戸時代は金貨を作る鋳造場を「金座」、銀貨を作る鋳造場を「銀座」、銅貨などを作る鋳造場を「銭座(銅座)」といいました。
鉱山で採れた金や銀を、町の職人を集めた鋳造場で貨幣にしていました。
勘定奉行の管轄下に置かれ、不正がないか厳しく管理されていたのです。
それぞれの鋳造場所
金座の場所
金座は江戸初期は駿府・京都・佐渡・甲府に金座が設置されましたが、元禄期に江戸の一ヶ所へ統合されることになります。
金座の管理をしたのは室町時代からの御用金匠である後藤家となります。
家康は橋本庄三郎という職人に後藤庄三郎光次の名を与え、独占的な特権を与えられて金座を管理することになります。後藤家は世襲制をとっており、子孫まで代々務めることができました。
そのため小判や金貨には初代の後藤庄三郎光次の名から「光次」の署名を刻印してあります。
銀座の場所
銀座は、江戸幕府以前の豊臣秀吉の時代に、大坂に常是座という銀座を設置したのが始まりです。また各地でも銀座に相当する鋳造場が設置されています。
江戸時代の銀座は、伏見、駿府、京都、大坂、江戸の2ヵ所、そして長崎にまで設置されました。
銀座も金座と同じく、江戸後期には江戸の一ヶ所へ統合されることになります。
銀座の管理は堺の職人湯浅作兵衛に大黒常是と名を与え、黒常是家による独占的な管理が行われました。そのため丁銀や銀座には「大黒」や「常是」の署名が刻印されています。
銭座(銅座)の場所
銭貨(銅貨)は平安時代や鎌倉時代にもありました。大陸からの銅銭が主流になっていた時代でも、大陸の銅銭を真似て鋳造場で作るなど、豪族が独自に鋳造した銅貨が出回っていました。
江戸時代には銭座は日本各地に設置され、銅貨が必要になったときに応じて鋳造されていました。
寛永3年(1626年)、水戸藩が銅貨の不足を理由に幕府に申し出て寛永通宝の鋳造が始まったのが江戸期では初めてとなります。(寛永通宝は江戸時代に初めて一般流通した銅銭。庶民が最も長く使用した穴銭でもある。)
この時点では水戸藩で使うだけの私鋳銭でしたが、その後寛永13年(1636年)に幕府として寛永通宝を鋳造することになりました。
銭座は江戸浅草橋場、芝網縄手、近江坂本の設置から始まり、その後水戸、仙台、長門萩、岡山、に大坂難波、江戸亀戸、紀伊宇津、伏見、下野日光、秋田銅山、石巻などへ設置が広がっていきます。
全部で60ヵ所以上の銭座があったと言われています。
江戸時代前期の銭座は、幕府の許可を得て商人が鋳造場を作って製造していました。それぞれの鋳造方法で作るため、完成した寛永通宝は各地で形にバラつきがありました。
そこで明和2年(1765年)以降は、幕府が金座や銀座で銭貨を作ることとして管理下に置き、統一された品質の高い寛永通宝が作られるようになりました。
現在の地名として残っているのは?
金座の地名
金座の場合、当初は駿府・京都・佐渡・甲府にも設置されましたが、後に江戸に統合されたため、地名として残ることは少なくなりました。
唯一、駿河にあった金座は静岡市葵区の「金座町」として名前が残されています。
江戸にあった本拠の金座は、現在は日本銀行の本店が建てられています。住所こそ金座ではありませんが、縁の深い場所に日本銀行は建てられているのです。
<日本銀行本店>出典元:Wikipedia
銀座の地名
江戸時代の銀座は、伏見、駿府、京都、大坂、江戸の2ヵ所、長崎に設置されました。
現在でも地名に「銀座」が残っているのは2ヵ所あります。
東京の「銀座」で、東京都中央区銀座です。
もう一つは京都伏見の「銀座」で、京都市伏見区銀座町となります。
銀座という地名は実は全国各地にも多数見かけられます。
例えば、長野県岡谷市銀座町、栃木県の銀座通り、熊本県の銀座通り、埼玉県の大宮銀座通り(商店街)、熱海銀座商店街、堺銀座商店街、旭川銀座商店街など。
このような銀座と名前のつく場所が100ヵ所程度あります。地名も多いですが、商店街の名前としてよく使われています。
しかし先ほど紹介したように、江戸時代の銀座は全国で数ヵ所しかありません。
なぜ銀座という名が全国で使われているかと言うと、単に縁起がよいからと採用されたのだそうです。
銭座(銅座)の地名
江戸時代の銭座は各地に設置されたそうですが、大阪と長崎の銭座ははっきり名前が残っています。
大阪の銅座跡地には大阪市立愛珠幼稚園(淀屋橋駅付近)が建てられています。「銅座の跡」の碑が建てられています。ここの銅座は大坂銀座に設置され元禄14年(1701年)から使用されていました。
また大阪市立銅座幼稚園(谷町六丁目駅付近)や隣にある銅山公園として名前が残っています。大阪だけでも数ヵ所あったことがわかります。
長崎では長崎市銭座町として名前が残っています。この町内ではたくさんの鋳造場があったのでしょう。
また出島があった近くには築地銭座があり、この付近は長崎市銅座町といいます。
長崎の歓楽街で知られている思案橋の近くになります。万治3年(1660年)から銭座が設置されていました。
「銭座町」「銅座町」とそのまま地名として残ったのは全国でもこの長崎県のみになります。
大判座の地名
金貨には小判よりもサイズが大きい大判という種類もあります。
大判は京都の金座(大判座)で作られていました。
鋳造を担当したのは、小判・金貨を鋳造した後藤庄三郎光次の師匠である後藤徳乗です。後藤宗家で大判は鋳造されていました。
江戸の後藤家と同じく世襲制で、京都金座は1791年の鋳造中止まで活躍しました。(大判は江戸や京都の両替町でも鋳造されています)
現在は住所としては大判座は残されていないようです。
まとめ
- 貨幣は金座・銀座・銭座で作られた
- 金座には日本銀行が建っている
- 銭座は全国60ヵ所ほどあった
- 銀座の名は縁起の良さからつけた商店街が多い