元文一分判金
レア度☆☆
買取価格少し高い
素材金65.3%
発行年度1736年~1818年

正徳・享保期にデフレが発生したため、金品位を下げた元文一分判金になります。同時に元文小判も鋳造されています。

この65.3%という金品位は正解で、ようやく経済が安定することになります。そのため江戸時代後半の80年間の金貨は、元文小判とこの元文一分判金が使われることになりました。

一分というのは、小判1両の1/4の価値になります。

元文一分判金の表面には桐紋(桐の葉や花を意匠とした家紋を指す)が上と下に刻まれています。

上部にある桐紋には、扇枠が見受けられますが、下部にはありません。中央部には“一部”と刻まれています。

裏面には中央から上にかけて“光次”と署名があります。中央より下にかけては、この金貨を製造した金座 後藤家の花押が刻まれております。

元文一部判金は右上に“文”の文字が刻まれているのが他の一分判金と異なる特徴です。この貨幣は1736年から1818年まで製造されていました。

重さはおおよそ3.2g。買取価格は10,000円前後となっています。値段が低いのは製造された数が多いことが理由です。

表と裏で上下向きが反対になった逆打ちタイプであれば40,000円程度が期待できます。

元文とは元号のことを指しております。このときの天皇は桜町天皇で、将軍は徳川吉宗でした。

元禄元年より製造された、元文一分金などの金銀を合わせた元文小判は、1736年の6月15日より流通するようになりました。

この小判などが出来るに至った背景には、米価を上げるための策を試みて、財政難にあえぐ武士ならびに農民を救おうとしたためです。

官僚として秀でていた大岡忠相らからアイディアを集い、貨幣自体の品位を下げ、代わりに流通する通過を増やす貨幣改鋳のために行われました。

享保金ならびに慶長金100両に対して、この金貨は165両という価値で交換されました。

純金量をおよそ44%減らしましたが、これでも幕府には出目が入ります。

最初のうちは、享保金と慶長金および元文小判の価値は同じだという御触書が出されます。

しかし問屋より金の含有量が異なるものを同じ価値としては扱えないとされたため、享保金と慶長金には1.65倍の付加価値をつけることで対処しました。

元文金が鋳造されてからは多少のインフレは起きましたが、それが経済の安定を生み出し長く使用されることとなりました。

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1,経験豊富な買取業者で鑑定してもらう

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